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2017日本奈良(3-6)長谷寺

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接著,我們來到長谷寺,剛好遇到十一面觀音開放入內參拜佛足。
經由寺內僧人帶領參拜並參觀寺景,後蒙住持簡短開示,享用茶點,並參觀天皇來訪時的特別會客室,真是特別。

長谷寺(はせでら)是位於
奈良県桜井市初瀬真言宗豊山派総本山之寺。
山号為豊山神楽院。本尊為
十一面観音、開基(創立者)乃
道明西国三十三所観音霊場第八番札所,亦是日本有名得観音霊場。寺紋為輪違紋。

本堂建於大和伊勢交接結的初瀬山之中,山下為初瀬街道。初瀬山是賞牡丹之名所,4月下旬〜5月上旬據說有150種類以上、7,000株的牡丹盛開,此寺自古即有「花之御寺」之稱。亦常出現於『枕草子』『源氏物語』『更級日記』等諸多古典文學之中。其中出現在『源氏物語』玉鬘之卷的副篇中的二本(ふたもと)之杉仍存在於境内。

長谷寺創建於奈良時代8世紀前半,創建的詳細時期與事情不明。依寺傳記載,天武朝朱鳥元年(686年),僧人道明於初瀬山西丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)建立三重塔,接著神亀4年(727年),僧人徳道於東丘(現在の本堂の地)祭祀本尊十一面観音像且開山,此事未見於正史記載。承和14年(847年12月21日定額寺天安2年(858年5月10日設置三綱,長谷寺此時期認定為官寺,並設置別当。而,貞観12年(870年)諸寺的別当・三綱為太政官解由(審査)的對象,長谷寺與其他官寺皆設置在朝廷(太政官)統制下。

長谷寺自平安時代中期以後,便以観音霊場成為貴族信仰万寿元年(1024年藤原道長曾参詣於此,中世紀以後廣受武士與庶民信仰。
長谷寺雖為
東大寺華厳宗)的末寺 ,平安時代中期為興福寺法相宗)的末寺,16世紀以後因覚鑁(興教大師)而成為僧正頼瑜成道的新義真言宗流派的寺院。天正16年(1588年)、在根来山(根来寺追隨豊臣秀吉的新義真言宗門徒入山,同派的僧正専誉是現在真言宗豊山派的大成。近年,對於子弟教育・僧侶(教師)培養不留餘力,以學問寺見長。


初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。本堂が国宝に、仁王門、登廊5棟(下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊)、三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されている。現存の本堂は8代目で、慶安3年(1650年)の竣工。登廊は長暦3年(1039年)に春日社の社司・中臣信清が我が子の病気平癒の御礼で寄進したとされるが、現存するものは近世以降の再建である。現存する蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊は本堂と同じ時期の建立。仁王門、下登廊、繋屋、中登廊の4棟は明治15年(1882年)の火災焼失後の再建で、仁王門は明治18年(1885年)、下登廊、繋屋、中登廊は明治22年(1889年)の建立である。これら明治再建の建物も、境内の歴史的景観を構成するものとして重要文化財に指定されている。

本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536年)までに計7回焼失している。7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天正7年(1538年)に再興(現存・8代目)。本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588年)に新しい堂が竣工した。ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後さらに建て替えられたものである。

現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645年)から工事に取り掛かり、5年後の慶安3年(1650年)に落慶したものである。同年6月に記された棟札によると、大工中井大和守を中心とする大工集団による施工であった。天正再興時の本堂は、元和4年(1618年)には雨漏りの生じていたことが記録されているが、わずか数十年後に修理ではなく全面再建とした理由は明らかでなく、背景に何らかの社会的意図があったとの指摘もある。高さ10メートル以上ある本尊・十一面観音像は、前述のとおり、天文7年に完成しており、慶安3年の新本堂建設工事は本尊を原位置から移動せずに行われた。そのため、本堂は内陣の中にさらに内々陣(本尊を安置)がある複雑な構成となっており、内々陣は巨大な厨子の役目をしている。

本堂は傾斜地に南を正面として建つ。平面構成・屋根構成とも複雑だが、おおまかには本尊を安置する正堂(奥)、参詣者のための空間である礼堂(手前)、これら両者をつなぐ相の間の3部分からなる。全体の平面規模は間口25.9メートル、奥行27.1メートル。正堂は一重裳階付き。構造的には間口7間、奥行4間、入母屋造平入りの身舎の前面と両側面に1間幅の裳階をめぐらせた形になり、全体としては9間×5間となる(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する。以下の文中においても同様)。礼堂部分は入母屋造妻入り、間口9間、奥行4間で、このうち奥の間口9間、奥行1間分を相の間とする。礼堂の棟と正堂の棟はT字形に直交し、礼堂正面側には入母屋屋根の妻を大きく見せる。礼堂の屋根は側面では正堂の裳階の屋根と一体化している。礼堂の左右側面にはそれぞれ千鳥破風を付し、屋根構成をさらに複雑にしている。礼堂の前半部分は床下に柱を組み、崖面に迫り出した懸造とし、前方に舞台を張り出す。屋根はすべて本瓦葺き。組物は正堂身舎が出組(一手先)、正堂裳階と礼堂は三斗とする。

礼堂は床は板敷き、天井は化粧屋根裏(天井板を張らず、構成材をそのまま見せる)とし、奥2間分は中央部分を高めた切妻屋根形の化粧屋根裏とする。相の間は一段低い石敷きで、化粧屋根裏とする。正堂の平面構成は複雑だが、おおむね手前の奥行1間分を外陣、その奥を内陣とする。外陣は板敷きで、天井は中央を化粧屋根裏、左右を格天井とする。その奥は中央の間口5間、奥行4間を内陣とし、その東西の各間口2間分は、東を宰堂室、西を集会所等とする。内陣は石敷き、格天井とし、その中央の二間四方を本尊を安置する内々陣とする。内々陣部分には切妻屋根が架かり、独立した構造となっている。

本堂は近世前半の大規模本堂の代表作として、2004年12月、国宝に指定された。棟札2枚、平瓦1枚(慶安元年銘)、造営文書・図面等3件が国宝の附(つけたり)指定となっている。

木造十一面観音立像(本尊)
長谷寺の本尊像については、神亀年間(720年代)、近隣の初瀬川に流れ着いた巨大な神木が大いなる祟りを呼び、恐怖した村人の懇願を受けて開祖徳道が祟りの根源である神木を観音菩薩像に作り替え、これを近くの初瀬山に祀ったという長谷寺開山の伝承がある。伝承の真偽はともかく、当初像は「神木」等、何らかのいわれのある木材を用いて刻まれたものと思われる。現在の本尊像は天文7年(
1538年)の再興。仏像彫刻衰退期の室町時代の作品だが、10メートルを超える巨像を破綻なくまとめている。国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものである。本像は通常の十一面観音像と異なり、右手には数珠とともに、地蔵菩薩の持つような錫杖を持ち、方形の磐石の上に立つ姿である(左手には通常の十一面観音像と同じく水瓶を持つ)。伝承によれば、これは地蔵菩薩と同じく、自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされ、他の宗派(真言宗他派も含む)には見られない独特の形式である。


參考資料:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%AF%BA
http://www.hasedera.or.jp/
https://www.youtube.com/watch?v=B6Z0h-b59gs







































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