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2017日本奈良(3-5)談山神社

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接著,我們來到談山神社,隱藏在綠意盎然中的古雅建築,帶出一種悠然的氛圍,令人流連忘返,不捨離去。

談山神社(たんざんじんじゃ)是位於、
奈良県桜井市多武峰(とうのみね)神社
祭神為
中臣鎌足(談山大明神・談山権現)。這裡是欣賞紅葉的名所。神仏分離以前是稱為多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)的寺院

根據鎌倉時代成立的寺傳記載,天武天皇7年(678年),藤原氏的祖先中臣鎌足死後,其出家為僧的長男定恵自唐歸國後,將其父之墓從摂津安威之地(参照:阿武山古墳)遷移至大和的此地,並建造十三重塔,此為其發祥之始。天武天皇9年(680年創建講堂(現在的拝殿),號妙楽寺大宝元年(701年),在十三重塔的東邊建立安置鎌足木像的祠堂(現在的本殿),號聖靈院。談山之名的由来,乃中臣鎌足與中大兄皇子大化元年(645年)5月,為討論大化の改新而來到多武峰此地,後人稱之為「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」。

平安時代藤原高光出家後入山,増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げた。鎌倉時代には曹洞宗本山永平寺の二世、孤雲懐奘(大和尚)が参学した。一方、平安時代に天台僧・増賀を迎えたことから、同じ大和国の藤原氏縁の寺院でありながら宗派の違う興福寺とは争いが絶えず、鎌倉時代から室町時代にかけて度々領地などを巡り争論を繰り広げ、多武峯妙楽寺側の十市氏、越智氏は興福寺側の楢原氏、布施氏、北隅氏らの軍勢と小競り合いを繰り返していた。

天仁2年(1108年),浄土院、食堂、経蔵、惣社、大温室、多宝塔、灌頂堂、五大堂、浄土堂及附近的鹿路眾村悉被燒毀。尤其是十三重塔於承安3年(1173年)被興福寺衆徒燒毀,於文治元年(1185年)再興建。而現在的十三重塔是享禄5年(1532年)再建,木造的十三重塔是世界で唯一僅現存。

往後,永享9年(1437年)開始,與越智、箸尾両氏的室町幕府軍的抵抗戦(大和永享の乱)、永正3年(1506年)8月針對赤沢朝経軍的大和国人一揆(十市氏、越智氏、箸尾氏)的抵抗戦、永禄2年(1559年)開始針對松永久秀的十市氏的抵抗戦,統稱「多武峰合戦」的3場抵抗戦開始後,此地的戰亂就沒有停止過。天正13年(1585年),豊臣秀吉により郡山城下に移すことを厳命され破却、遷座。天正18年(1590年)に帰山を許された。徳川家康により復興。近世の朱印領は3,000石余である。

明治2年(1869年)頒令神仏分離僧人被迫還俗。改名談山神社,在近代社格制度中,列為別格官幣社。然而今天仍可在談山神社境内發現佛教建築,形成特的氛圍。

談山神社から御破裂山への山道があり、その奥に中臣鎌足の墓所といわれる場所がある。談山神社から、少し歩いたところに中臣鎌足の次男、淡海公(藤原不比等)の墓といわれる石塔がある。

拝殿や十三重塔は戦前に何度か日本銀行券の図案に採用されたことがある(乙20円券など)。

紅葉の名所として名高いが、桜も多く標高が高いことから周辺よりも遅咲きの桜が楽しめる。

鏡王女
鏡王女(かがみのおおきみ、生年不詳 -
天武天皇12年7月5日683年8月2日))は、飛鳥時代歌人藤原鎌足の正妻。『万葉集』では鏡王女、『日本書紀』では鏡姫王と記されている。『興福寺縁起』・『延喜式』では鏡女王。『興福寺縁起』では藤原不比等の生母(後世の創作とする説もある)。また後述するが「鏡王女」と「鏡姫王」を別人とする説もある。

素性は謎に包まれており、額田王の姉という説があるが、『日本書紀』等には2人が姉妹だという記述はなく確証はない。しかし、額田王の父・鏡王との血縁関係はなかったとしても、同じ「鏡」という名が付いている事から、同じく鏡を作る氏族に養育された可能性はある。また、鏡王女には舒明天皇の皇女ないし皇孫だという説もある。

はじめ天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻となる。鎌足の病気平癒を祈り、天智天皇8年(669年)に山階寺(後の興福寺)を建立した。

『日本書紀』の天武天皇12年7月の項に、己丑(4日)、「天皇、鏡姫王の家に幸して、病を訊ひたまふ。庚寅(五日)に、鏡姫王薨せぬ(秋七月 丙戌己丑 天皇幸鏡姬王之家 訊病 庚寅 鏡姬王薨)」とあり、4日天武天皇が見舞いに来たが、その翌日の天武天皇12年7月5日に死去した。

直木孝次郎の書籍『額田王』によれば、当時明文法にはないが言うまでもない事実として、女王をめとれるのは王に限るという規則があり、そのためいくら鎌足が有力者であろうとも女王をめとれるわけがない。後世の創作であろう(鎌足の妻とするのは興福寺縁起のみである)とした上で、「鏡王女」は「鏡女王」とは記載されない(舒明の皇女「鏡女王」は年代から別人)ことから、「鏡王の娘」と読むのが正しく、額田王のことであろうとしている。また万葉集にある鎌足の妻どいの歌は余興の上の冗談であり(めとれる身分にないことから)、額田王の返歌は、王族でない者に冗談とは言い寄られ、怒っている(「貴方はともかく、私の名に傷が付く」)そうである。

萬葉集中有四首鏡王女的詩。
鏡王女の
(こた)(たてまつ)る御歌一首
秋山の
()の下(がく)り行く水の我こそまさめ思ほすよりは(万2-92)
【通釈】秋の山の、木々の下をひそかに流れてゆく川の水のように、おもてには表さなくとも、お逢いしたいという思いは私の方がまさるでしょう。殿下が思っておられるよりは。

内大臣藤原卿、鏡王女を(つまど)ふ時に、鏡王女の内大臣に贈る歌

玉櫛笥(たまくしげ)覆ふを安み明けていなば君が名はあれど我が名し惜しも(万2-93)

【通釈】お化粧箱を蓋で覆うように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってからお帰りになるなんて。そんなことをなさったら、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ。

鏡王女の作る歌一首

風をだに恋ふるは(とも)し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ(万4-489、8-1607)

【通釈】訪れたのが風にすぎなかったとしても、恋しがる相手がいるのは羨ましい。風だけでも、来ないかと待つ相手がいるなら、何を歎くことがありましょう。

春雑歌鏡王女の歌一首

神奈備(かむなび)石瀬(いはせ)(もり)の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる(万8-1419)

【通釈】神なびの石瀬の杜の呼子鳥よ、そんなにひどく鳴かないで。私の恋心がつのってしまう。

參考資料:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%87%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E7%8E%8B%E5%A5%B3
http://www.tanzan.or.jp/











































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