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2017日本奈良(3-1)當麻寺

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今天早晨,我們來到了當麻寺。

當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)位於
奈良県葛城市,是7世紀創建的寺院。
法號為「禅林寺」。山號為「二上山」。創建時的
本尊弥勒仏(金堂),当麻曼荼羅(本堂)成為如今的信仰中心。宗派是高野山真言宗浄土宗並立。開基(創立者)是聖徳太子的異母弟─麻呂古王草創。

西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。

大和七福八宝めぐり(三輪明神長谷寺、信貴山朝護孫子寺當麻寺中之坊、安倍文殊院おふさ観音談山神社久米寺)の一つに数えられる。

本項では寺号と行政地名については現地における表記を尊重して「當麻」とし、人名、作品名等については「当麻」の表記を用いる。

中将姫の蓮糸曼荼羅(当麻曼荼羅)の伝説で知られる當麻寺は、二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置する。當麻寺がある奈良県葛城市當麻地区(旧・北葛城郡當麻町)は、奈良盆地の西端、大阪府に接する位置にあり、古代においては交通上・軍事上の要地であった。二上山は、その名のとおり、ラクダのこぶのような2つの頂上(雄岳、雌岳という)をもつ山で、奈良盆地東部の神体山・三輪山桜井市)と相対する位置にある。二上山は、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、者のがおもむく先であると考えられた特別な山であった。二上山はまた、古墳の石室や寺院の基壇の材料になる凝灰岩(松香石)や、研磨剤となる柘榴石の産地でもあった。

古代の大和国の東西の幹線路であった横大路は、現在の葛城市長尾付近が西端となり、そこから河内方面へ向かう道は二上山の南を通る竹内(たけのうち)峠越え(竹内街道)と岩屋峠越え、二上山の北を通る穴虫峠越え(大坂道)に分かれる。この分岐点付近を古代には当麻衢(たいまのちまた)と呼び、672年の壬申の乱の際には戦場となった。これらの峠越えは、河内と大和を結ぶ主要な交通路で、古代には中国大陸や朝鮮半島から渡来の文物が難波(大阪)の港から都へと運ばれるルートでもあった。平安時代の浄土教僧で『往生要集』の著者である恵心僧都源信はこの地方の出身である。また、当麻の地は折口信夫(釈迢空)の幻想的な小説『死者の書』の舞台としても知られる。

当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた名であるとの通説があるが、神功皇后の母方の先祖(アメノヒボコの子孫)、尾張氏、海部氏の系図を見ても頻繁に但馬と当麻あるいは葛城との深い関係が類推される。

當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である「当麻氏」の氏寺として建てられたものと推定されている。金堂に安置される弥勒仏像と四天王像、境内にある梵鐘と石灯籠、出土した塼仏、古瓦などは、いずれも天武朝頃(7世紀後半)の様式を示し、寺の草創はこの頃と推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。

当麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になって、ようやく各種書物や記録に當麻寺の草創縁起が見られるようになる。その早い例は、12世紀末、鎌倉時代初期に成立した『建久御巡礼記』という書物である。これは、建久2年(1191年)、興福寺の僧・実叡がさる高貴の女性(鳥羽天皇の皇女八条院と推定される)を案内して大和の著名寺社を巡礼した際の記録である。同書に載せる縁起によれば、この寺は法号を「禅林寺」と称し、聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊として草創したものであり、その孫の当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇9年(680年)に「遷造」(遷し造る)したものだという。そして、当麻の地は役行者ゆかりの地であり、役行者の所持していた孔雀明王像を本尊弥勒仏の胎内に納めたという。[5]

建長5年(1253年)の『大和国當麻寺縁起』によれば、麻呂子王による草創は推古天皇20年(612年)のことで、救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建されたものであるという。その後、天武天皇2年(673年)に役行者から寺地の寄進を受けるが、天武天皇14年(685年)に至ってようやく造営にとりかかり、同16年(687年)に供養されたとする。『上宮太子拾遺記』(嘉禎3年・1237年)所引の『当麻寺縁起』は、創建の年は同じく推古天皇20年とし、当初は今の當麻寺の南方の味曽地という場所にあり、朱鳥6年(692年か)に現在地に移築されたとする。なお、前身寺院の所在地については味曽地とする説のほか、河内国山田郷とする史料もある(弘長2年・1262年の『和州當麻寺極楽曼荼羅縁起』など)。河内国山田郷の所在地については、交野郡山田(現大阪府枚方市)とする説と、大阪府太子町山田とする説がある。

以上のように、史料によって記述の細部には異同があるが、「聖徳太子の異母弟の麻呂子王によって建立された前身寺院があり、それが天武朝に至って現在地に移転された」という点はおおむね一致している。福山敏男は、縁起諸本を検討したうえで、麻呂子王による前身寺院の建立については、寺史を古く見せるための潤色であるとして、これを否定している。前述のように、寺に残る仏像、梵鐘等の文化財や、出土品などの様式年代はおおむね7世紀末まではさかのぼるもので、當麻寺は壬申の乱に功績のあった当麻国見によって7世紀末頃に建立された氏寺であるとみられる。

奈良時代から平安時代にかけての寺史は、史料が乏しく、詳しいことはわかっていない。現存する本堂(曼荼羅堂)は棟木墨書から永暦2年(1161年)の建立と判明するが、解体修理時の調査の結果、この堂は奈良時代に建てられた前身建物の部材を再用していることがわかっている。寺に伝わる当麻曼荼羅は、前出の『建久御巡礼記』によれば、天平宝字7年(763年)に作られたとされている。『弘法大師年譜』には弘仁14年(823年)、空海が當麻寺を訪れて曼荼羅を拝し、それ以降、當麻寺は真言宗寺院となったという伝えがある。

治承4年(1180年)、平重衡の南都焼き討ちにより、東大寺興福寺などの伽藍の大部分が焼失したが、興福寺と関係の深かった當麻寺も焼き討ちの被害に遭い、東西両塔などは残ったが、金堂、講堂など、一部の堂宇を焼失した。

平安時代末期、いわゆる末法思想の普及に伴って、来世に阿弥陀如来の西方極楽浄土に生まれ変わろうとする信仰が広がり、阿弥陀堂が盛んに建立された。この頃から當麻寺は阿弥陀如来の浄土を描いた「当麻曼荼羅」を安置する寺として信仰を集めるようになる。中でも浄土宗西山派の祖・証空は、貞応2年(1223年)に『当麻曼荼羅註』を著し、当麻曼荼羅の写しを十数本制作し諸国に安置して、当麻曼荼羅の普及に貢献した。

当麻氏の氏寺として始まった當麻寺は、中世以降は中将姫伝説と当麻曼荼羅の寺として知られるようになる。「当麻曼荼羅」は、学術的には「阿弥陀浄土変相図」または「観経変相図」と称するもので(「変相」とは浄土のありさまを絵画や彫刻として視覚化したもの)、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土のありさまを描いたものであり、唐の高僧・善導による『観無量寿経』の解釈書『観経四帖疏』(『観無量寿経疏』)に基づいて作画されたものとされている。なお、当麻曼荼羅の内容については別項「当麻曼荼羅」を参照。

当麻曼荼羅の原本については、中将姫という女性がの糸を用い、一夜で織り上げたという伝説がある。中将姫については、藤原豊成の娘とされているが、モデルとなった女性の存在は複数想定されている。

當麻寺本堂(曼荼羅堂)に現存する、曼荼羅を掛けるための厨子は奈良時代末期から平安時代初期の制作で、当麻曼荼羅の原本は遅くともこの時代には當麻寺に安置されていたとみられる。しかしながら、曼荼羅の伝来や由緒にかかわる資料は平安時代の記録には見当たらず、曼荼羅の「縁起」が形づくられていくのは鎌倉時代に入ってからである。先述の『建久御巡礼記』によれば、当麻曼荼羅はヨコハギ(横佩)大納言という人物の娘の願により化人(けにん、観音菩薩の化身か)が一夜で織り上げたものであり、それは天平宝字7年(763年)のことであったという。12世紀末のこの時点では「中将姫」という名はまだ登場していない。13世紀半ばの『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう)ではヨコハギ大納言の名は藤原豊成とされており、以降、父の名は右大臣藤原豊成、娘の名は中将姫として定着していく。中将姫の伝承は中世から近世にかけてさまざまに脚色されて、浄瑠璃歌舞伎などにも取り上げられるようになり、しだいに「継子いじめ」の話に変質していく。話の筋は要約すると次のようなものである。

今は昔、
藤原鎌足曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。

この話はよほど人気があったようで、
世阿弥近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎の題材ともなった。

參考資料:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B6%E9%BA%BB%E5%AF%BA



















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