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2019日本兵庫縣山之鄉(2)

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2019.5.21
今天我們參觀了竹田城跡、長福寺、法道寺。

今天的天氣晴朗得不可思議,藍得透亮的天空,綠得出油的林丘,顯現出一種別樣的精神。


竹田城跡,又稱「虎臥城」、「天空之城」,亦有「日本的馬丘比丘」之稱。以其如夢似幻的雲海美景,聞名於世。












































引用路邊導覽圖片




中午用餐處



長福寺



在入口迎接我們的可愛青蛙





















法道寺










2019.5.22.
往關西機場車途中一景

























































竹田城(たけだじょう)は、現在の兵庫県朝来市和田山町竹田にあった日本の城山城)。

縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。国の史跡に指定されている。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川川霧により霞むことから、「天空の城」や「日本のマチュピチュ」とも呼ばれる。

雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。

東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸二の丸三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。

竹田城は、険しい地形にありながら、曲輪のすべてを石垣で取り囲んだ総石垣の城郭である。山頂に築かれた城郭としては最後の近世城郭にあたる。縄張りなどから類推して近世初期と考えられる。竹田城は山名宗全がこの地に城を築くよう命じ、羽柴秀長が新しく縄張りを行い、その後の赤松広秀が文禄のころより豊臣秀吉の支援を受けながら、壮大な城へ仕上げたものと考えられている。

安土城のような大規模な石垣構造をもち、虎口枡形を有する。尾根の最高所に本丸を置き、その正面に天守台がある。本丸から三方向にのびて、北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪という大きな曲輪群を有している。面積は18,473m²にも及ぶ。石垣は穴太流石積み技法で、豊臣時代の山城に代表される遺構である。『ひょうごの城紀行』によると「竹田城は赤松広秀が三十代後半の働き盛りに築いた城ということになろう」としている。竹田城の特徴のひとつとして、北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪の3つの曲輪群の標高が331mとほぼ同じ高さに作られている。本丸の標高は351mになるので標高差は20mとなる。このことより、平面構成だけではなく立面構成にも高度な計算がなされ3つの曲輪群が計画的に配置されている。の総数は天守を含め20基前後が推定されている。

築城に関しては不明な点が多い。江戸時代末期に成立した『和田上道氏日記』によると嘉吉年間(1441年 - 1443年)に丹波国播磨の出入口である竹田の地に「安井ノ城」が築かれたことを記している。「安井ノ城」とは「竹田城」そのものをさす。『和田上道氏日記』は古い伝承をまとめたもので、竹田城の築城に関しては他に史料がなく『史跡・竹田城』によると「嘉吉三年、山名持豊によって築かれ、太田垣光景が初代城主に任じられたとする口碑を残すのみである」とし、嘉吉3年(1443年)に但馬守護山名宗全(持豊)によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承を紹介している。

この時期、但馬守護山名氏と播磨守護赤松氏の間で度々軍事的衝突が起こる。嘉吉元年(1441年)6月、室町幕府6代将軍足利義教が重臣で播磨・備前美作守護赤松満祐暗殺され、幕府による追討軍に宗全が志願したからである(嘉吉の乱)。8月に幕府より追討令を受けた宗全は一族を動員して3方から播磨を攻め、宗全軍は丹波より生野から播磨に入国し、9月に城山城にいる満祐を滅ぼした。10月に宗全は恩賞として任命された播磨守護として入国し、太田垣氏守護代とし赤松氏の掃討戦を実施している。

その後嘉吉3年(1443年)に赤松教政が、文安元年(1444年)に赤松満政が、康正元年(1455年赤松則尚が山名軍に反抗するがことごとく敗れ、自刃・逃亡している。当時の竹田城は播磨と但馬の国境を守る拠点で、播磨を平定するための出撃の拠点ともなっていた。

応仁元年(1467年)、細川勝元と山名宗全の争いが一因で応仁の乱が起こると但馬は細川氏と山名氏の争いの場となった。翌応仁2年(1468年)3月、細川軍の内藤軍が夜久野から但馬に侵攻しようとしていた時、竹田城で留守を預かっていた太田垣軍は、竹田城から出軍し夜久野で合戦となり小勢ながらよく戦い、内藤軍の大将2名を討ち取った。夜久野高原には現在も「内藤塚」と言われている供養碑が残っている。

その後も細川氏や赤松氏の脅威は去らず、応仁の乱が終わると宗全の孫山名政豊赤松政則が播磨などを巡って抗争を続け、一時山名軍が播磨を占領したりしたが、長享2年(1488年)頃には敗戦となり政豊の権威も低下、内紛も発生してしまうようになった。大永2年(1522年)に政豊の子山名誠豊が播磨へ攻め込んだが、この時になると太田垣氏は出軍要請にも従わないようになり、赤松氏は結束を取り戻し山名軍を追放することになった。

出雲の戦国大名・尼子氏は永禄9年(1566年)の月山富田城の戦い毛利元就に一旦滅ぼされた。しかし、永禄12年(1569年)5月に元就が九州で大友氏と交戦(多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月に出雲奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、以前尼子氏と同盟していた山名祐豊(誠豊の甥)がこれを支援した。これに対して毛利元就は織田信長に祐豊の背後を脅かすよう但馬出兵を依頼、これに応じた信長は8月1日木下秀吉軍2万兵を派兵し、わずか10日間で18城を落城させ、8月13日には京都に引き上げた。此隅山城にいた山名祐豊はに亡命したが、同年末には一千を礼銭として信長に献納して但馬への復帰を許された。この時竹田城も攻略されたと考えられているが、山名祐豊の重臣太田垣輝延は引き続き城主として留まったようである。

天正元年(1573年)、吉川元春ら毛利軍は出雲、伯耆因幡に進軍し尼子軍を撃破しながら但馬に迫ってきた。太田垣輝延は毛利軍に降伏し、次いで天正3年(1575年)5月に山名祐豊は吉川元春に誓紙を送って芸但同盟が成立する。一旦危機が去ったように思えたが、今度は丹波の赤鬼と言われた荻野直正が同年10月に竹田城を占領すると、山名祐豊は一転して信長に救援を求め、信長も応じる形で明智光秀を派遣して第一次丹波制圧(第一次黒井城の戦い)を開始し、荻野直正は黒井城に撤退した。

やがて信長と毛利氏の間が次第に悪化すると、信長は播磨に羽柴秀吉を派遣した。天正5年(1577年)10月、秀吉は黒田孝高に迎えられ姫路城に入城、それから1ヶ月で播磨の諸将から人質をとり帰服させることに成功した。その後羽柴軍は二手に分かれ、秀吉率いる本隊は上月城を攻城、別の一隊は秀吉の弟羽柴秀長が3000兵を率いて但馬に進軍した。

秀長隊の狙いは2つあったのではないかと『史跡・竹田城跡』では解説していて、一つは毛利軍に帰服している但馬諸将の制圧、もう一つは生野銀山の確保が目標であったようである。竹田城は生野銀山を管轄しており秀長隊の第一目標になり、11月に秀長隊は真弓峠から但馬に侵攻、まずは岩洲城を攻城し、次いで竹田城を攻城した。

天正7年(1579年)5月、秀長は信長の命令で明智光秀支援のため竹田城から丹波へ攻め入ったが、秀長は竹田城に戻らず播磨に引き上げたと考えられ、毛利方の太田垣輝延が間もなく竹田城に入城した。翌天正8年(1580年)4月、再び信長の命により秀長が6400兵を引き連れ但馬攻めを開始すると、竹田城、有子山城はさしたる抵抗もせず降伏した。山名祐豊、太田垣輝延はその座を奪われ、山名氏と四天王と呼ばれた太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえ滅亡した。

秀吉は秀長を有子山城主に、秀長配下の武将である桑山重晴を竹田城主にそれぞれ命じた。桑山重晴は後に和歌山城に転封となり、替わって但馬出石城前野長康、付将として豊岡城明石則実八木城別所重棟、そして秀吉に投降した龍野城斎村政広が竹田城の城主となる。この斎村政広によって現在の竹田城が完成される。

最後の城主である斎村政広関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍方は敗戦した。このため東軍の亀井茲矩の誘いに乗る形で鳥取城攻めに加わり落城させる。しかし城下の大火の責任を問われ、東軍の盟主であった徳川家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日鳥取の真教寺にて切腹。

政広の居城であった竹田城は家康の命により 山名豊国が受取りを務め、入城した。

その後江戸幕府の方針により、竹田城は廃城となった。

1932年(昭和7年)、出口王仁三郎により大本の布教を兼ねた登城のために南登山道が教団の財力と影響力を使って整備され、10月18日に登城している。

1943年(昭和18年)9月8日、「史蹟名勝天然紀念物保存法」に基づき、国の史跡に指定される。

1989年(平成元年)11月、文化庁の許可を得て、角川映画天と地と』のロケーションが行われた。城跡には製作費3億円を投じて、天守閣大手門等のセットが建設された。また2003年に映画『魔界転生』でも城をセットに原城を再現した上、ロケ地として使われた。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(56番)に選定された。2005年度の来客数は一年間で33,000人だったが、100名城への選定で知名度が上がり、雑誌やネットのニュースサイトなどでも雲海に浮かぶ竹田城の画像がたびたび報じられ話題になるようになった。
 
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